その人は、ヒロシ青年の母、キミエでした。 
 
 キミエは、若い頃から大変な料理上手で、近所にお祝い事や法事が

あったりすると、率先して料理作りの段取りをし、地域の女性の

 リーダー的な存在でした。    



 
キミエは、悩んでいる息子に「卵といったらやはり

茶わんむしがいい。硬さもちょうど豆腐に似ている

から、茶わんむしをまねて作って見たら?」

というヒントをくれたのでした。

 
    
母の一言に希望を取り戻したヒロシのチャレンジが再び始まります。

 豆乳に液卵・だし・調味料を混ぜたものに、茶わんむし風の具、つまり

シイタケ・タケノコ・なると巻き・鶏肉を入れて加熱します。

 しかし、試食してみるとあまり美味しくありません。


    
 

そこで、「手間はかかるけど、具の下ごしらえをしっかりやろう。」

と決め、それぞれの具の味付けと煮込みをしっかりやって、試食すると、、、、

「やった!これだ!この味だ!」



1970年、昭和45年、日本で初めての

 「茶わんむし風玉子とうふ」

の誕生の瞬間でした。

その陰には、貧しい豆腐屋の青年の

固い決意と、料理上手な

おばあちゃんの智恵があったのでした。



     
   
  「豆腐屋は貧しい職業」というレッテルをはられたに等しいヒロシ青年は

「 一生、貧しい豆腐屋で終る訳にはいかない。勝負をかける時だ! 」

と決意します。

 「 他の豆腐屋が、まねのできないものを作ろう! 」

その時、思い浮かんだのは「豆腐」と「卵」の組み合わせでした。

そこで早速、豆乳に液卵を混ぜて、ダシに昆布とカツオブシを用いて、

塩としょうゆで味を整え、試作を続けたヒロシ青年でした。


     
     
最後に筒状の袋に入れて、加熱・殺菌・凝固をしました。袋のデザインも

ハイカラな感じにして、商品名を「パッピーちゃん」としました。

 食べるお客様に幸せな気分になってほしい。また、自分もヒット商品を

世に送ることにより幸せをつかみたいという思いを込めてのネーミングでした。

しかし、、、。

 売れ行きはパッとしません。お得意さんからは、

 「豆腐はやはり豆腐だヨ。卵を混ぜちゃ、気持ちが悪いよ。」

 との不評が相次いだのでした。

「これは、マズイ。失敗したか、、、?」

と、なかばあきらめかけた時、思わぬヒントをくれた人がいました。


その人は、ヒロシ青年の母、キミエでした。  


  
ひそかにヒロシ少年が心をかよわせていた女生徒に

自分の豆腐売りの姿を見られるのは、何より

恥ずかしい事でした。

「豆腐屋というのは、何と、

貧しく恥ずかしい職業なんだろう。」

思春期の少年には、

決して楽しい日々ではありませんでした。

 
   
やがて来るであろう豆腐作りの機械化を見越して入学した工業高校を

卒業したヒロシ青年が、本格的に家業の豆腐作りに取り組んだ20歳の頃、

ヒロシ青年には、好意を抱
く女性がいました。

   
それは、毎朝、豆腐を卸す

小売店の娘さんでした。

一大決心を固めたヒロシは、

娘さんのお父さんに 

「お嬢さんを、ボクのお嫁さんに下さい!」

と告げたのでした。ところが、、、  

   
  
次の瞬間、ヒロシ青年が一生忘れる事の出来ない言葉が、お父さんの口から。

「豆腐屋に、娘はやれん!」



「豆腐屋とは、そんなにヒドイ職業か!?」ヒロシは愕然としました。

「自分の人間性が嫌われて、断られるなら仕方ない。

でも、豆腐屋だから嫁にやれないとは、、、。」




大きな失意の中で、

それでもヒロシ青年は決意を固めます。

「いつの日か必ず

【どうかウチの娘をもらって下さい】と

言われるような、

立派な豆腐屋になってみせるゾ。」と。  

 
  



終戦も間もない貧しい時代ー、青森、津軽の小さな町、カニタ町に

中学校登校の前に、豆腐を売り歩く、少年がいました。

少年の名は「ヒロシ」

少年の祖母が農業のかたわら始めた「豆腐づくり」が軌道に乗って、

少年が思春期をむかえる頃には、近隣町村の小売店に、豆腐を卸すよう

になっていました。

家の仕事の手伝いとはいえ、小遣いをもらえる

訳でもなし、一家の一員としてする、

当たり前の事でした。


夏、自転車の後ろに豆腐を山積みにし、隣村へ

続く峠を越えることは、大変な重労働でした。
 
 
 
冬には、馬車に積んで

豆腐を売り歩きましたが、

ある日、川にかかる

橋の上で、何に驚いたのか、

急に馬が棒立ちになって、

積んでいた豆腐を一丁残らず、

凍てつく川に落としてしまった

苦い記憶もあります。

 

そんな辛い日々、早朝の配達を終え、家路へ向かう頃になると、

登校する同級生とバッタリ道で顔を合わせることがあります。


  
  


「いらっしゃいませー!」 「どうぞ、食べてみて下さいネ!」

 「青森から来た、元祖玉子とうふデス!」 「美味しいよー!」

今からもう、25年以上も昔、私(社長、木戸宏文)は、仙台市内の

スーパーで、元祖玉子とうふのマネキン(試食)販売をしていました。

当時、大学を卒業したての、イケメン?草食系?の男性マネキンは、

買い物客の奥様方に好評で、一日で1,000個以上の玉子とうふを

売った日もありました。


 昭和45年、私が8歳の年、元祖玉子とうふが発売になりました。

今年で発売から42年が経過します。

 その誕生、商品化のウラには、先代社長の父と祖母の、なみなみならぬ

苦労があったと聞きます。

 当社の元祖玉子とうふを心から愛してくれる

「あなた」へ、この物語を捧げます。